Drama
21 to 35 years old
2000 to 5000 words
Japanese
見慣れない白い天井。ぼんやりとした視界に、薬品のような匂いが鼻をつく。ここはどこだ?いや、それよりも僕は一体…?
ゆっくりと体を起こそうとするが、うまく力が入らない。全身が鉛のように重い。頭痛がズキズキと響き、吐き気を催した。
声が聞こえた。顔を上げると、柔和な笑みを浮かべた女性が立っていた。白いナース服を着ている。
「ここは死後の療養所です。あなたは…まぁ、亡くなられたんです」
彼女の言葉が、ゆっくりと、しかし確実に僕の頭に染み込んでいった。亡くなった?僕が…?そんな馬鹿な。
「断片的な映像がいくつか…でも、それが現実なのか、ただの夢なのか…」
彼女は優しく微笑みかけた。「焦らないでください。ここは受容のための場所です。ゆっくりと、ご自身のペースで思い出していけばいいんです」
それからというもの、僕は療養所でぼんやりと日々を過ごした。周りの人は皆、穏やかで親切だった。でも、僕はどこか心を閉ざしていた。生きている時から抱えていた孤独感が、死後の世界でも消えることはなかった。
療養所での生活は、ほとんどが現世と変わらなかった。朝食、リハビリ、夕食、就寝。ただ、生きている時とは違って、誰もが静かに、穏やかに、そして諦念を抱いているように見えた。
8年間、僕はほとんど自室に引き籠もっていた。頭痛や腹痛を訴え、リハビリもろくに受けなかった。ナースやセラピストたちは、無理強いすることなく、ただ見守ってくれていた。
死んだら楽になると思っていた。でも、死後の世界には死後の世界なりの苦しみがある。それは、死にたくても死ねないという残酷な事実だった。
ある日、いつものように自室で引き籠もっていると、コンコンとドアがノックされた。
「ショウさん、少しだけお邪魔してもよろしいですか?」
返事をする気力もなく、僕はただ無視を決め込んだ。すると、再びノックが聞こえ、優しい声がした。
「ショウさん、成香です。少しだけお話しませんか?コーヒー、淹れてきたんです」
成香…聞き覚えのある名前だった。少しだけ、ドアを開けてみることにした。
ドアの隙間から顔を出すと、明るい笑顔の女性が立っていた。歳は僕と同じくらいだろうか。ショートカットの髪がよく似合っていた。
「はい、成香です。療養所で働いているんです。ショウさんのこと、ずっと気になっていました」
彼女は、差し出してくれたコーヒーを受け取った。「ありがとうございます…」
「よかったら、お部屋に入れてもらえませんか?立ち話もなんですし」
彼女の言葉に、少しだけ心が動いた。8年間、誰ともまともに話していなかった。でも、彼女の笑顔には、なぜか拒絶できない優しさがあった。
成香さんは、部屋に入ると、小さなテーブルにコーヒーを置き、椅子に腰かけた。部屋の中を見回すと、少しだけ眉をひそめた。「ずいぶんと、殺風景な部屋ですね」
「それはいけませんね。もっと外の空気を吸って、他の人とも交流しないと」
僕は、黙り込んだ。自分の過去を、そして死因を、誰にも話したくなかった。
成香さんは、無理に問い詰めようとはしなかった。ただ、静かに僕の隣に座っていた。
しばらくの沈黙の後、彼女は口を開いた。「ショウさん、辛かったでしょう。でも、あなたは一人じゃないんです。ここには、あなたと同じように、辛い経験をしてきた人がたくさんいます。そして、私たちは皆、あなたを助けたいと思っているんです」
彼女の言葉が、僕の心の奥底に響いた。誰かに必要とされたのは、いつぶりだろうか。まるで、長い間忘れていた感情が、少しだけ芽生えたような気がした。
僕は、ぽつりぽつりと、自分の過去を語り始めた。妻からの虐待、そして、息子のこと…。
「…毎日毎日、罵倒され、暴力を振るわれました。それでも、息子のために、耐え忍んでいました。でも、もう限界だったんです。あの時、僕は…」
言葉が途切れた。あの日の光景が、鮮明に蘇ってきた。
成香さんは、静かに僕の言葉を聞いていた。そして、最後に、優しく僕の手を握った。「辛かったですね。本当によく頑張りました」
その言葉を聞いた瞬間、僕は堰を切ったように泣き出した。8年間、押し殺してきた感情が、一気に溢れ出した。
それからというもの、僕は少しずつ、療養所の人々と交流するようになった。成香さんが、色々な場所に連れて行ってくれた。
庭園を散歩したり、音楽療法に参加したり、他の患者たちとゲームをしたり…。
最初は戸惑ったけれど、徐々に、人々と触れ合うことの温かさを思い出した。
過去の傷は、簡単には癒えなかった。でも、周りの人たちの支えによって、少しずつ、前を向けるようになっていった。
ある日、成香さんに連れられて、僕は死因となった場所を訪れた。
焼け跡は、すっかり取り壊され、更地になっていた。そこに、小さな花束が手向けられていた。
「あなたの息子さんですよ。時々、ここに来られているみたいです」
胸が締め付けられるような思いがした。息子は、僕が死んだ後、どうやって生きてきたのだろうか。寂しい思いをしていないだろうか。辛い思いをしていないだろうか…。
僕は、無意識のうちに、空に向かって叫んでいた。「ごめん、ごめんね…」
成香さんは、優しく僕の背中を撫でた。「大丈夫ですよ。きっと、伝わっています」
数年後、療養所で穏やかな日々を過ごしていた。過去の記憶は、完全に消えることはなかったけれど、もう、僕を苦しめることはなかった。
成香さんとは、かけがえのないパートナーになった。互いを支え合い、助け合い、穏やかな日々を共に過ごしていた。
ある日、成香さんと庭園を散歩していると、空から声が聞こえたような気がした。
僕は、驚いて空を見上げた。すると、目の前に、眩い光が現れた。光の中から、幼い頃の息子の姿が見えた。
「だめだ!来るな!死ぬな!」僕は、必死に叫んだ。「生きて、幸せになるんだ!約束だ!」
光が消え、息子の姿も消えた。僕は、地面に崩れ落ち、泣き崩れた。
成香さんは、何も言わずに、ただ優しく僕を抱きしめてくれた。
その後、療養所で息子と出会うことはなかった。しかし、僕は知っていた。息子は、僕の言葉を聞き、生きて、幸せになるために頑張ってくれるだろうと。
僕は、死後の世界で、ようやく受容することができた。自分の過去を、自分の死因を、そして、息子の未来を。死後のリハビリテーションは、まだ終わっていない。でも、僕はもう、一人じゃない。成香さんと、そして、いつか再会できる息子がいる。僕は、死後の世界で、ようやく、生きる意味を見つけたのだ。
時間は流れ、いつしかショウも療養所で多くの仲間に囲まれて穏やかな生活を送っていた。過去を悔やむことはあっても、後悔はない。息子が懸命に生きていることを信じているから。
今日もまた、庭で成香と穏やかな日差しを浴びている。ふと、遠くを見つめると、一人の青年がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
青年はショウの目の前で立ち止まり、深々と頭を下げた。「父さん…会いたかった。」
それは、紛れもなく成長したショウの息子だった。涙があふれ、言葉が出ない。成香がそっと背中を支えてくれた。
息子は顔を上げ、優しく微笑んだ。「そっちで、ずっと父さんのこと見てたんだ。辛かったんだね。でも、もう大丈夫。俺も頑張って生きて、やっと父さんに会えた。」
ショウは震える手で息子の頬を撫でた。「よく頑張ったな…。大きくなったな…。」
再会を喜び合う父と息子を、成香は優しい眼差しで見守っていた。死後の世界で失ったものを取り戻し、新たな絆を築いたショウ。彼の長い死後の旅は、ようやく終わりを告げたのだった。
しかし、ショウの心には、死因となった過去の記憶と、受容できた未来への希望が入り混じり、複雑な感情が押し寄せるのだった。それでも彼は、この新たな出会いを胸に、死後の世界で生き続けることを決意した。